強固なロジックの無限の反復

日記のような、そうでないような。

奇跡の光景──古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』

 小学校低学年(確か2年生か3年生)の頃、学校の日記帳に「時間」をテーマに詩のようなものを書いたことがあります。
 次から次へとやってくる「時間」というものの不思議さを、素朴な言葉で書いたものでした。今は処分してしまったので手許に残っていませんが、哲学への憧憬は既にこの頃から持っていたのかもしれません。

 若い頃の私は、なんとなく哲学に憧れを抱いてはいましたが、遂にその道に進もうと決意することはありませんでした*1。憧れだけじゃ食べていけない、とやや斜に構えていた面もありますが、むしろ「精読」や「厳密さ」といった学問として当然の手続きを、私が到底呑めそうにないと観念したという方が正確だと云えます。眼光紙背に徹して文献の字句と向き合うなんて、とても耐えられそうにないと私は尻尾を巻いたのです。
 しかし、哲学的命題に対する野次馬的な興味は今でも少なからず抱いていますし、学問としての哲学を仕事としなかったおかげで好き勝手に考えることができるのは、却って私にとって幸せなことなのかもしれません。

 考えることというのは哲学者だけの特権的な行為ではなく、万人に開かれたもの、言葉を扱うことさえできれば誰にだって(例えば5歳児にだって)出来ることです。生死について、生命について、宇宙について、こう考えなければならないという決まりごとはなく、そもそも本来はそれを論証して見せる必要すらない自由な行為です。
 このような私の基本的な「構え」を作りあげるきっかけとなったのがこの本です。
 20代の頃から何度も繰り返し読んできたために既にぼろぼろですが、今でも時折頁を開いています。著者は私の母校の教授でしたが、私はその講義は聴講していませんでした*2。よし聴講していたからと云ってその当時私が陥っていた袋小路から抜け出せていたとも思えないのですが、袖すり合うも多生の縁、浅からぬ因縁を感じます。結局私は大学卒業後にこの本を通じて著者と「出会い直す」ことになったのです。そして、その「出会い直し」は私にとって大いに意味のあるものでした。

「存在神秘」「滅びの中の生成」「世界劇場」「惑星帝国」…目次を見るといかにも意味ありげな独特の言葉が並んでいます。

一瞬めざめて、存在神秘を味わうことができれば──たとえたった二つで死んだ子も──、存在論的には、永遠にわたって生きたことと同等である。たとえ三兆年間生き続けることができたとしても、〈存在の味=存在神秘〉にかわりはないからだ。
 無限に長いフランスパンを考えられたい。その全体を賞味できなくても、ほんの一片味わえば、〈味〉という点では、その全体を味わったことと同等だろう。しかも存在のフランスパンのばあい、そもそも刻一刻の一片(一瞬刹那)しか実在しない。

 長遠な「三兆年」という想像を超える時間が「フランスパン」という身近な言葉で一気に手許に手繰り寄せられる心地よさ。
 ハイデガーが眩暈のするような修辞技法で示した「道」を、身近な言葉で丁寧に示し直してくれたということが、私にとって驚きでした。それまで哲学とは「どこか遠くを見る」ための方法だと私は思っていましたが、実は全く逆で、身近で当たり前だと思っているものごとを「深く見る」ための方法なのだと気づかされたのです。そして、「深く見る」ということが、実は「遠くを見る」ことでもあると教えられました。
 燃えているろうそくの炎。役柄を演じる生身の役者。映画のエンドマーク。ハイデガーが示した「道」の向こうには果たしてどんな光景が広がっているのか、わかりやすい喩え話を交えながらも精緻な言葉で丹念に解きほぐしてくれます。

 「道」の向こうに広がっている光景。
 それは、昨日までと同じに見える、しかし確かに昨日までとは違う、その日限りの「奇跡」の光景。もっと正確に云えば、未来永劫にその一瞬にしか存在しない、無限に続く「奇跡」の光景の連続。
 私が小学生の頃に感じた「時間」は、きっとこの断片なのでしょう。

 この本を読んで以降の私は、だんだんと「遠く」に思いを馳せることを止めていきました。妄想的な希望や遠くの憧れ(「いつか」や「どこか」)よりも、「近さ」(=「今」)を意識するようになっていったのです。勿論、時間は随分とかかりましたが*3
 そんな風に思うようになっていなければ、恐らく私はヨメと出会えてはいなかったでしょうし、今でもルサンチマンを片手に言葉の武器で誰かを傷つけ続けていたのだろうと思います。
 ニヒリズムの片面だけに幻惑されて自分を動かそうとしなかったかつての私。
 その思い込みはあたかも頑強なコンクリート壁のように感じられていましたが、少しずつ自分の考えを見直すうちに、いつの間にか形を変え、気づいたら霞のように消えていました。

 どのような思想や哲学であっても、現実に誰かの生き方を変えることがなければ、それは単なる「観念遊戯」に過ぎないのではないかと私は思います。きらびやかな言葉で華麗に論理を構築しても、それが「生身の私」に届かないのであれば、砂上の楼閣と同じです。

 生きて今在るということが、どれほど凄いことか。

 哲学者の言葉は、結局はその「奇跡の光景」に導くためにのみ費やされ、またその言葉によって、より「生きる」ためにこそあるのだと、私は信じています。

(古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』 2002年3月 講談社現代新書

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

*1:以前にも少しだけ書きました。参考:「信じる - 強固なロジックの無限の反復

*2:当時、一般教養課程(パンキョー)向けの著者の講義は学生の間で「コテツ(東の学概論)」と呼ばれ、楽勝単位の代名詞でした(笑)

*3:最初に読んだときにはあまりピンと来ていなかったようです。なんだかずれた文章を残しています。復刻版「存在論的な願望 - 強固なロジックの無限の反復