荒む

 恐れていたことが、最悪の形でやって来た。本年7月上旬、西日本で降り続いた豪雨によって引き起こされた、同時多発的な土砂災害・水害。多くの死者・行方不明者が出て、今なお酷暑の中避難所での不便な生活を余儀なくされている人が多くあることに、心が痛む。私の住む街でも多くの被害があり、死者も出た。鉄道も道路もいたるところで寸断され、一時はスーパーやコンビニの棚から多くの商品が消えた。今もなお、以前の状態には回復していない。完全な復旧には長い時間を要するだろう。これだけ広範囲に被害が及ぶと、復旧できない場所も出るかもしれない。大きな傷痕が、大地に、人々の心に残された。なぜ? 私は問う。何を間違えたのか。何を誤ったのか。七年前のあの巨大な災厄の時に何度も問うた問いを、今も、繰り返し胸になぞる。七年前から今に至るまで、災害は毎年やって来ては、この邦の各所に傷を負わせてきた。ヒトにとって、この国土はあまりに過酷だ。複数のプレート上の微妙なバランスに辛うじて支えられ、予測困難な複雑な大気の流れの渦中に置かれた、過酷な国土。地震津波、火山噴火、水害、雪害など…いつどこで災害が起きてもおかしくない。そしてそれらは既に私の一部であり、私の意識を為している。この国土の上に、災害と無縁な安全な場所など皆無だ。例えば、525,307。これは国土交通省が平成14年に発表した、全国の「土砂災害危険箇所等」の合計数。土石流・地すべり・急傾斜地崩壊(がけ崩れ)の危険箇所を合計した箇所数だ*1。この表を仔細に見ると、自治体によって大きな差があることがわかる。私が住む中国地方の自治体には特に危険箇所が多い。行政は立看板によって注意喚起を行っているはずだが、現に居住する多くの人にとっては関心の薄い事柄だ。起きるかどうかも分からない災害のことを気にして暮らしていくのは難しい。その無関心が被害を広げてしまったのではないかと思うと、私は悔しい。この中の相当数がこの度の豪雨で発災に至ってしまった。更にそのうちの幾らかは、防災施設そのものが損壊している。現代の土木技術で、この過酷な国土に抗うことの困難を思う。どれだけ技術が発達しても、また防災施設の建設に潤沢な予算がついても、人の意識が変わらない限り、災害で人的被害を減らすことはできない。いのちが、軽視されている。荒んでいる。国土も、人の心も。先日、いわゆる「限界集落」に足を踏み入れる機会があった。今回の大雨で集落に繋がる市道はがけ崩れで通行止めになり、勾配のきつい山道を息を切らしながら10分ほど登った。現住世帯僅かに2戸。集落に市道を導いた先人を顕彰する碑は藪に埋もれかけ、集会所も随分前から使われた形跡がなかった。恐らく昔は林業で生計を立て、十数戸が点在していたこの集落も、そう遠くないうちに灯が消えるだろう。このような風景は決して珍しいものではない。この先十年で、多くの集落が相次いで消えていく。その流れを止めることはもうできないだろうと私は悲観している。直近の一世紀で産業構造は破壊的に変化し、生活様式も大きく変わってしまった。今から昔に戻ることは到底できない。経済活動の自由がある以上、大都市圏に人口が集中することを止めることはできないだろう。そうしてこの邦は、末梢から緩やかに死につつある。郷愁や懐古などではどうにもならない。人の手を離れた土地が増える。それは「自然に還る」などという生易しいものではない。自然が回復するのは数百年単位の長い時間が必要であり、人の尺度で見れば、荒廃した土地が増えていくということでもある。荒んでいく、更に。いつからだろうか、「このままで済むわけがない」と思っていた。すべてが数値化され、マネタイズされ、この邦はすっかり虚構に呑まれてしまった。カネにならないものはゴミクズ同然に扱われ、そうして多くの大切なものを、私は惜しげもなく棄ててきた。この邦は、何でもカネに替えてきたツケを清算しなければならない段階に入っている。悲しいことに、それはいのちで贖われつつある。そしてこれから、さらに多くのいのちで支払われるだろう。七年前のあの巨大な災厄は、嚆矢に過ぎなかったのか。私は多くの死者を踏みつけにして、今もまだ、立って息をしている。明日、今度は私が屍となって誰かに踏みつけにされているかもしれない。荒む。荒んでいく。

*1:参照資料: http://www.mlit.go.jp/river/sabo/link20.htm 国土交通省・土砂災害防止法のページより

何を望めば

 何を望めばよいだろう?

 望みなどもうそれほどたくさんは必要ない、
 なのに私は何を望めばよいのかわからない。

 ただ
 心穏やかに日々暮らせれば
 それで十分だと思うのだが、
 きょうびそれすらも贅沢だ。

 ぼんやりと雲の行方を追ったり、
 空の色の移り変わりを眺めたり、
 木々のざわめきに耳を傾けたり、
 静かなせせらぎに身を置いたり、

 そんなことすら満足にできない。

 私はもう、私に期待しない。
 私の躰はいつも心を裏切る。
 私の心は常時落ち着かない。
 私の魂はとうに擦り切れた。

 誰か教えてほしい。

 どこを目指せばよい。
 何を差し出せばよい。
 そして、
 いつまで長らえれば、
 恩赦が下されるのか。

 いつ、終えればよいのか。

 何を望めば、
 許してもらえるのか。

命じられて

 これまでたまたま何本かの物語を書くことができ、幸運なことに今も次作を少しずつ準備しているところですが、相変わらずその発想がどこからやって来て、私に何をさせようとしているのか、よくわからないままです。
 若い頃は、物語を通じて自分の描きたいことを描くのだという妙に気負った姿勢でいましたが、結局私はそのうちのひとつとして完成させることができませんでした。何も表現することなどできず、多くの時間を空費しました。

 今は、少し違います。
 物語を通じて何かを表現しようなどとは思わなくなりました。
 結果として私自身がその中に集約的に表現されているかもしれませんが、それは目的ではなくあくまで副次的なものでしかありません。
 では何が目的なのかというと、物語を書きあげることそのものが目的なのです。ひとたび書き始めたら、命を削ってでも書くつもりで臨まなければ、書き上げることすらままならないのですから。

 作品がいかなる評価を得ても、また得なくても、それは私自身とは無関係だと思うようになりました。
 もちろん、自分を通り抜けた言葉たちがもっとたくさんの人の目に触れたらいいのに、と煩悶することも少なからずあります。そう思うのは私の勝手ですが、それは決して物語の罪ではない、と思うことにしています。
 読まれないと悩むのはあくまで私の問題であって、物語自体には無関係なのだと思うのです。もしも作品が何らかの評価を得たとしても、それは作品が評価されたのであって、それを書いた私が評価されたわけではないと、割と本気で思っています。
 なぜなら、私には物語を制御することができないからです。

 私に作品を書くように命ずるものが何なのか、私には全くわかりません。
 それは私であって私でなく、誰かであって誰でもない。

 そんなあやふやなもののために、命を削る思いで書く。

 くだらない、と思われるかもしれませんが、書くかどうかを決めるのも、実は私ではありません。ひとたび作品に書けと命ぜられれば、とにかく書くほかなくなるのですから。
 その声が一体どこから響いてくるのか、何度考えてもわかりません。

 なので、私は自分の作品の「作者」だとは到底言えません。命じられるままに書く、「記述者」に過ぎないのだと思うのです。そして私自身、「作者」であるよりも「記述者」であることを強く望んでいるようです。

 私はもう、コンペに応募したり、本を自作してイベントに参加したりということはしないでしょう。自分の実力がどの程度のものなのか、それを知る必要もないと思います。読者を獲得するために様々な手管を弄するようなこともしないつもりです。作品を何らかの方法で換金することにも興味はありません。果たしてこの先、どのくらいの作品を書くことができるかも、全くの未知数です。
 ただ、もしも命じられたことに背けば、大きな後悔と、消えぬ汚点とを、自分の生に刻んでしまうことでしょう。

 命じられれば書く、何もなければそれまで。

 毎回「もうこれが最後だ」というつもりで書いてきました。そうして私を通り抜けていった作品たちは、もう私のものではありません。
 恐らく、これからもそうでしょう。

「記述者」であるためには、私自身はできるだけ空っぽである方がいいような気がしています。
 いつまでこんなことを続けられるのかはわかりませんが、やれるところまではやってみようと、今は考えています。

匿名と顕名

 私はこの場では筆名を使っています。本名の私とは微妙にずれた人物像になっているかもしれませんが、ありがたいことに、少なくとも幾人かの人には「不波流」という筆名は、特定の人物として認識されているだろうと思います。
 私はできるだけ、「私は」という主語を外さずに考えることを私自身に課しています。それはこのブログを始めたときから一貫してそうしてきたつもりです*1
 確かに筆名の私は本名の私とは違うものかもしれませんが、「属人性」を曖昧にしたくないなあと私は考えています。

 誰もがフラットな言語空間では「誰が言ったか」はあまり重要ではなく、発言の内容…「何を言ったか」こそが重要だ、と考えることもできるでしょう。殊に、匿名であることが担保可能な場では、どのような人物が発言したかを察知することはほとんど不可能です。

 しかし、私は匿名での発言にはほとんど興味がありません。
「何を言ったか」と同じくらい、いや場合によってはそれ以上に、「誰が言ったか」も大事なのだと考えているからです。
 だから私は、本名ではないですが、顕名での発言をしています。

 あくまで私自身の内的な規範に過ぎませんし、誰かにそれを強要するつもりもありません。
 しかし、「誰が言ったか」の積み重ねの上には、信用が醸成されると私は考えます。

 私が信用に値する書き手であるかどうかは別にして、匿名性に隠れた発言には責任が伴わないのは確かでしょう。言うだけならタダ、そんな無責任な放言ばかりでは、真摯な意見の交換も建設的な議論も、なかなか期待できないのではないでしょうか*2
 先ほども述べたように、おかげさまで私は幾人かの人に「不波流」という筆名を持つ、特定の人物として認識されています。したがって、発言の積み重ねによって醸成された信用と同時に、責任も発生しています。

 たとえどれだけ微細であっても、誰人の発言にも、必ず影響力が具わっています。
 例えば、誰かが発したふとした一言がいつまでも自分の胸に刺さっているという経験は、誰しもあるのではないでしょうか。人生を変えるようなよい影響を受けた場合もあれば、逆に深い傷となってしまったこともあるかもしれません。
 その一言は、必ずしも意図して発せられたわけではないでしょう。本当に他意のない、発した本人が覚えてもいないような言葉であっても、それを受けた側には忘れられないものになるということが、生きていると必ず起こります。
 同じように、私の発した何気ない一言が、誰かになにがしかの影響を与えるということも必ずあるはずです。

 私の発した言葉が、誰かに影響を与えるかもしれない。
 そのことを十分に自覚したうえで発言する。

 それが、顕名で発言している私の責任だと思っています。

*1:ブログを書き始めて四ヶ月目の段階で、こんな文章を残しています。参考:「 言葉を連ねる覚悟(仮題) - 強固なロジックの無限の反復

*2:もっとも、世の中には顕名で無責任な発言を繰り返す輩も、少なからずいるようですが。

証 ─ 石牟礼道子『苦海浄土』

 もうずいぶん前から読もうと思いながら、ずっと本書を手に取る勇気を持てずにいました。そうしてぐずぐずしているうちに、2月10日、石牟礼道子さんの訃報に触れ、私はようやくこの本を手に取ったのです。
 題材となっているのは、水俣病という近代工業化の過程で起きた最も悲しい出来事の一つ。たったそれだけの理由で、私は本書を手に取る勇気をなかなか持てずにいたのです。
 いざ手に取ってみると、私はその強い「磁力」に吸い寄せられるように一気に読みきってしまいました。
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 杢太郎少年とわたくしは、爺さまがそのようにしているあいまに、目と目だけでいつも会話をとりかわすのであった。爺さまが、酔いの勢いで少し乱暴に、ゆくか、あねさんに、ほうら抱いてもらえ、などと、少年の体を拍子をつけて放り投げようとするとき、この少年とわたくしは、ちかりとまなざしをあわせ、木仏さまのような重量しかない彼の体は、もう私の胸の中に場所を替えている、という具合である。
(第四章 天の魚 「海石」より)

 胎児性水俣病のために、9歳という年齢にしては軽々とした体の杢太郎少年。言葉を発することのできない彼と、たしかに心を通わせる著者。彼女の地に足のついたその言葉は、ときにどこかユーモラスですらあり、しかし「患者」として苦しい生を生きなければならない彼ら彼女らの言葉を(時に発せられない言葉までも)、あますところなく拾い上げようという執念も滲んでいます。そうして拾い上げられた言葉たちは、凄まじいまでの輝きを放っているのです。

 舟の上はほんによかった。
 イカ奴(め)は素っ気のうて、揚げるとすぐにぷうぷう墨ふきかけよるばってん、あのタコは、タコ奴(め)はほんにもぞかとばい。
 壷ば揚ぐるでしょうが。足ばちゃんと壷の底に踏んばって上目使うて、いつまでも出てこん。こら、おまや舟にあがったら出ておるもんじゃ、早う出てけえ。出てこんかい、ちゅうてもなかなか出てこん。壷の底をかんかん叩いても駄々こねて。仕方なしに手網(たび)の柄で尻をかかえてやると、出たが最後、その逃げ足の早さ早さ。
(第三章 ゆき女きき書 「五月」より)

 坂上ゆきという四十代の女性患者が、夫と二人で漁に出ていた頃を回想して話す内容をきき書きした部分ですが、なんと生き生きした言葉でしょう!
 こうして語られる海との暮らし、祭り、あるいはその人の来歴…
 石牟礼道子という一人の女性を通り道にして、幾人もの人たちが、幸せも不幸せも、素朴な言葉で豊かに語るのです。そして、それが鮮やかに私の眼前に浮かび上がるれば浮かび上がるほど、それだけ強く、水俣病という公害病の残酷さが照射されてきます。

 彼ら彼女らは、公害さえなければこれほど過酷な生を生きることはなかったはずです。平凡に、つつましやかに、その生涯を終えたはずです。
 過酷な生から絞り出された声の、その声色までもが聞こえてくるような言葉の列。彼ら彼女らは、決して病に襲われた不条理な不幸ばかりを訴えるのではなく、かつての暮らしの何気ない幸せを、懐かしそうに語るのです。いやそればかりか、あまりに苛烈な運命をじっと見つめて深く省察することもあります。

 先に挙げた杢太郎少年は、生まれつき見ることも話すこともできません。しかし、彼の祖父は、「お前やそのよな体して生まれてきたが、そこらわたりの子どもとくらぶれば、天と地のごつお前の魂のほうがずんと深かわい」(第四章 天の魚「九竜権現さま」より)と、何度も何度も繰り返します。
 もの言えぬ体と生まれても、魂は深い。
 言葉として現れずとも、杢太郎少年が様々なことを感じていることを、彼の祖父はよく知っているのです。そして、きき書きに通う石牟礼氏も、そのことをしっかりと感じ取っています。

「共感」という言葉では足りない、深い「共鳴」のような作品。

 第三章「ゆき女きき書」には、後年亡くなった坂上ゆきさんの病理解剖に、石牟礼氏が立ち会う場面があります。克明にして精緻な筆致でその場を描きつつ、しかし脳裏には生前の彼女の「声」が、なまなましく響いている。見ているものと、聞こえていることとが、錯綜していく。不思議な場面です。

 果たして石牟礼氏は「患者たちの代弁者」だったのでしょうか?
 私は、どうもそれだけではないような気がします。
 過酷な生を生き、死んでゆかねばならなくなった患者たちの声ならぬ声を丹念に拾い上げ、広く世に知らしめた。
 確かにその通りです。
 ただ、石牟礼氏自身にはあまり「代弁する」という意識はなかったのではないかと私には思われてなりません。
 病に冒され世間から棄てられた人びととかかわるなかで、やむにやまれぬ行為として書いた。だからその形式は主として「きき書」という形式でなければならず、石牟礼氏は患者(時には死者)とのいわば「共働」*1でこの作品を書き上げたのではないか。
苦海浄土』という作品は、石牟礼道子という女性が接した多くの患者やその周囲の人々との共同作業で成し遂げられたものであるということを強く感じます。

 このような残酷な出来事が、確かにこの邦であった。
 かくも苛烈な生を生き抜いた人びとが、確かにいた。

「〇号患者」と番号で呼ばれた彼ら彼女らは、名前を持って生まれ、暮らし、確かに生き切ったひとりひとりの人間であったことを証だてようとするかのような石牟礼氏の文章。
 私はそれを粛然と受け取りました。
 まだ、何を受け渡されたのかを十分に整理できたわけではありません。これからも少しずつ彼女の文章に触れ、考えてみようと思っています。

石牟礼道子『新装版 苦海浄土 わが水俣病』2004年7月刊 講談社文庫)

*1:この言葉は若松英輔氏の著書で使われていました。氏によるNHKテレビ『100分で名著』の『苦海浄土』がなければ、私はいまだにこの書を手に取る勇気を持てずにいたかもしれません。